前回のブログで次回は「本当の愛とは何か?」についてお話しさせて頂きます。とお伝えました。

そんな私は 過去5回に渡って「」について触れてきました。(以下 ブログの題名)

音しかない」「音に秘められたソース」「音の世界に魅せられて」「21世紀の医療 音」「宇宙の はじまり・・音

 

 わたしは 音でつくられている

だから

音がズレることで 体や心に不調をきたす

それは やがて 人生に歪みをきたす

これが 本当の自分を生きていない状態

だから 

音を調律する必要がある 

 美しい旋律を奏でるとき

それは

本当の自分を生きているとき

わたしが わたしを表現するとき

 わたしは しあわせであり 

 その しあわせの波紋が広がる

唯一無比の

自分の音を奏でること

それが 愛 

 

? ? ? ・ ・ ・ 何のことやら?ですか?

分かりやすく 掻い摘んでお話しして行きますね お付き合いください。

 

先ず  愛について書かれている書物を調べてみました。

• 愛は与えるもの 恋は奪うもの

• 愛は自己犠牲 恋は自己満足

• 愛には真心があり 恋には下心がある

• 愛は見返りを求めない 恋は見返りを求める

• 愛は二人で育むもの 恋は突如生じるもの

これ等は 恋愛を対象にした愛のカタチですね。何を対象にしているかによって愛のカタチや表現が違ってきますが・・ ひとまず これ等を参考に取り上げてみます。

愛とは 与えるもの、自己犠牲、見返りを求めない、真心、育む と、あります。

よく無償の愛とか博愛とかワンネスなどとも云われます。

では 愛を お金に例えてみましょう。

今、あなたの目の前に緊急を要する人が助けを求めています。この人を助けるには、お金が必要です。あなたが 今 出せる分だけのお金を差し出して欲しいのです。因みに、出したお金は返金はされません。この緊急を要する人が あなたにとって愛する恋人なのか、子どもなのか、家族なのか、友人なのか、他人なのか・・?それによって出す金額は違ってくるでしょう。お金と一口に言っても、現金に限らずカードやアプリでの支払いもあるでしょう。いずれにしても 出せる範囲内で差し出すと思うのです。与えるモノがお金であれば 自分がいくらまで出せるのか? だいたいの目処はつきます。

ではこれが 愛 だったとしたら どうでしょう? 愛という目に視えないモノ 実態のないモノを与えるわけです。自分がどれだけの分量を持っているのか? 与えたらいいのか? 与えられるのか? 計れません。

愛とは「与えるもの」「無償」「自己犠牲」「見返りを求めない」これ等が本当の愛だと云います。

本当にそうでしょうか?

シャンパンタワーの法則を例に挙げてみます。

シャンパンタワー

1番テッペンのグラスがわたし(自分)だと想定してください。その1番上のグラスにシャンパンが注がれます。仮にその注がれるモノがお金だとしましょう。注がれて注がれて・・ 有り余ったお金が下のグラスへと零れ落ちます。自分はもういっぱいで いっぱいで 使い道がない!そのお金が下のグラスへと流れるのです。 えっ?貯えたいですか?それはまた別の話しとして今は脇へ置きましょう。(笑)

ではこれが 愛 ならどうですか?

愛も同じです。注がれて注がれて・・グラスに入りきらないほどの愛が注がれて・・溢れ出た愛が 下のグラスへ流れるなら どうですか? 見返りは求めません。だって次から次へと愛が注がれるのですから・・ あなたはいつだって愛に溢れているのです❤ その 有り余った愛を他人に与えたところで 自分が困ることは何もありません。

この様に 目に見えるモノ 実態の在るモノであれば 分かりやすいのですが

愛は目には見えません。実態もありません。そうです!  無いのにあげるのです。無いのに与えようとするのです。

これが 自己犠牲です 見返りを求めない愛? 無償の愛?

えっ? それっていけないの? そんな声が聞こえて来そうです。

無いモノを与えたとして・・はじめの内はいいでしょう。与えた自分も気持ちがいいものです。与えられた相手も満たされます。

でもどうでしょう? 無いモノを与え続けたとしたら・・ そもそも 無いモノを与えることは不可能なことです。それでも (目には見えない愛が故に) 自分が満たされていないにも関わらず 与えて 与えて 与え続けてたとします。 すると どうでしょう? その内 本当の意味で 疲れ果て 枯渇します。

その枯渇は いつかしか 無償で与えたはずの相手へと見返りを求めます。 それは やがて 怒り、恨み、憎しみ、へと変わります。精神的ダメージだけに留まらず、 疲労で肉体も病み、自分自身が身動きが取れなくなることも否めません。見返りを与えた相手に求めなかったとしても、その穴埋めや代償を別の何かに求めます。 自己犠牲は こうして 自分自身が苦しみ 傷付くだけではなく 実は 与えたはずの相手や 周りの人間をも苦しめることになるのです。

先ずは 自分を満たすこと 他人に与えるのは その次です。

スキューバーダイビングをされる方なら経験がある方もいると思います。ダイビングは必ずペアで潜ります。その相方のことをバディといいます。バディの酸素ボンベにトラブルが生じた時 先ず 自分が思いっきりボンベから酸素を吸います。バディに酸素を与えるのは そのあとです。でなければ 共倒れします。 こんな話を 元スチュワーデス(客室乗務員て言うんでしたね)の方達に話をしたことがありました。 そうしたら 逆にその方達がこんな話をしてくれました。飛行機事故の訓練で 先ず! 酸素を吸うのは客室乗務員である自分だそうです。お客様に酸素を供給するのは その次だそうです。何故なのか?もう分かりますね。

先ずは 自分を満たす 

(己の命もかえりみず 咄嗟に救助に飛び込む・・ そんな愛もあるでしょう。今回はこの根源意識については割愛させて頂きますね)

自分を満たす・・ これについて 先ずは マズローの欲求5段階をご参照ください

■■人の欲求は5段階■■

①生理的欲求(生命維持)

②安全の欲求(環境、経済)

③社会的欲求 (家族、所属)

④承認の欲求(存在価値)

⑤自己実現の欲求(創造的活動欲求)

①が根底 続いて②→③→④→⑤と順に段階が上がって行くカタチがマズローの5段階欲求です。

つまり、①生命維持が確保され → ②環境や経済が安定し → ③家族や勤務先などのコニュニティーが確保され → ④自身の存在が承認され → ⑤自己表現(可能性を最大限に発揮するクリエイティビティ)が評価される

これが5段階欲求です。

何もこの段階を踏まなくても いいのでは (〃艸〃)ムフッ??

ここからは 私の見解ですm(__)m

風の時代の現在いまこの段階にとらわれること無く!欲求を満たそう!!

①の生命維持さえ確保されていれば 一足飛びに ⑤の自己表現へーーーッ!!

個が尊重される 風の時代 今の若者は いとも簡単に この生き方を具現化しています💛

YouTube や TikTok や Instagram などで自己を表現することでお金を稼いでいる人もいますよね。その環境が用意されている現在いま 風の時代 自己表現をすることで生きている人も確実に増えています。その自己表現がみとめられるのが 風の時代であり 個の時代です。

愛の定義も時代によって変わります

「士農工商」の身分格差があった時代に 自己を実現すると言ったところで 全くもって皆無ですよね。何のことや 通じません。また、若者達の中には 恋愛に興味がない人達が確実に増えています。それ程、趣味嗜好 娯楽が多様化しているのでしょう。結婚制度に捕らわれないノンモノガミーという生き方を選択する人も居ます。バーチャルの世界で恋愛をする人。トランスジェンダーの方々も圧倒的に増えています。性別をも超越した愛のカタチ・・ 本当に多様化した世の中となりました・・

 

愛もしあわせも 自分で満たすのです

自分で 愛を満たす しあわせ に導けるのは自分自身です

他力本願で他人に愛を満たして貰おうと考えている限り本当の意味での愛やしあわせは得られません。

自分自身が愛に包まれ 満たされている時 はじめて見返りを求めない愛のステージへと到達します。

そのステージへと導けるのは 本当の意味で 自分しか居ないのです。

自立した先の愛 これこそが 真の愛のカタチ です

自分で自分を大切にすること それが 愛 です

 

ここで 真の 母性愛 とは何か? これについても触れておきますね。

母性愛」と云うと「無償の愛」を真っ先に想い浮かべませんか?

確かに そうでしょう。 見返りを求めない愛 まさにそうですよね?

生まれたばかりの 放っておいたら自力で生きることすらできない危うい命であり 自分のDNAが刻まれた生命であるが故に愛おしく かけがえのない存在であり、無条件にその存在が愛おしいのです。

実は 赤ちゃんはとてもパワフルです。あの鳴き声!! 自身の存在をケタタマシイ程の音(声)で表現します。皆さん 人生を生きて来て あれ程までに 人目もはばからず 大声で泣いたこと ありますか? 赤ちゃんの存在意義!凄いです! そして、その赤ちゃんが 実はお母さんを癒しているのです。お母さんの乳房に吸い付くこと・・ それは あたかも お母さんがお乳を与えている様で 実は赤ちゃんから尊厳という無償の愛をお母さんに与ているのです。

(ここ押さえておいてくださいね)

 

そして やがて 子どもも成長し 自我が芽生えます

これまで ママの言いなりだった子どもも そうは行かなくなります。幼児期の子どもは 自分に忠実です。嫌なものは嫌!好きなモノは好き!「僕のモノは僕のモノ 君のモノも僕のモノ」自己中心的な彼らの振る舞いに困惑し、思い通りに操作できないシガラミに奮闘し悩み疲れ果て・・💦 これ 多かれ少なかれ子育てをする上で通った道だと思います。そんな時 お母さんは間違った(歪んだ愛)をこれが愛なんだ!と主張し 子どもに植え付けてしまいがちです。

因みに この 間違った、歪んだ愛真の愛だ!と植え付けれれた子どもは 大人になって異質な愛のカタチを形成します。それが人間関係や恋愛、社会での適応に大なり小なりの歪んだカタチとなって表れます。何故?社会的に成功しないのか?実は これらの根源も この幼少期に培った母または父との関係に起因するのです。ここに関しては また次回のブログでお話することとして・・

 

 真の母性愛 とは

  • 与える 
  • 見守る
  • 突き放す

母性を野生のヒョウに置き換えてみます(何でもいいんですけどね)

先ず「与える」 子育てをしている野生のお母さんは気が荒くピリピリです。それは外敵から我が子を守るが故の愛です。(なんてったって弱肉強食の食物連鎖の世界ですから)父親であるはずの雄ヒョウが目の前に現れても歯をむき出し威嚇します。その実、母と子の愛💛信頼関係はスキンシップや授乳により確実に育まれます。

そして「見守る」これ、人間の子育てでもよく云われますね。「手を離して目を離すな」これです!子どもは好奇心旺盛です。自我が芽生えた我が子をジーーーッと遠くから観察してその対処法を見守る。実はこの段階の親と子の間で交わされる信頼関係は その後の人生を格段に左右する!と言っても過言ではないくらい重要です。子どもはパパやママが遠くで見守っていることを暗黙の意識で受け取っています。子どもがパッと振り返ったとき いつでもパパやママと目が合う!これ重要なんです!これが将来 自分を信じるという自信へと繋がります。勿論 ヒョウは絶対に目を離しません!離したら最後💦いつ何時 敵が襲って来るやも知れないのですから!

そしてラスト「突き放す」私はここを伝えたかったーーーッ!ヒョウ(ヒョウに限らず)子別れの時の母親の凄まじさ!! あんなに愛した愛おしい我が子を まるで 敵 かの様に引き放します。お乳を吸いに母親の下へすり寄って来ようものなら 牙をむき 威嚇します! 何故?! その答えは簡単です。依存の関係は即!死に直結するからです弱肉強食の世界では 自立が必要不可欠です。自分で狩りをしなければ生き抜くことは出来ないのです。ヒョウは与えた愛を私に返せ!なんて思わないでしょう。

見返りを求めない母性愛とは・・

わたしが与えた愛があれば大丈夫

たとえ 地球の裏側で 離れ離れになったとしても

わたしが与えた愛を わたしでは無く

他の誰かに与えなさい

これが 愛の循環 無償の愛 です。

 

「本当の愛とは何か」 の話しから 「母性愛」へと角度を替えて話をしましたが

本当の愛とは 自分自身を満たすこと

他人に求めるのでは無く 自分で自分を導くこと

 

そもそも わたしは 音で できている

その音を本来の状態へと調律したなら

本当の自分を生きることができるのです

本当の自分を生きること それが 愛

(このことについて次回は より掘り下げてお話させてください)

 

最後にある著書の一説よりシェアさせて頂きます 愛について参考になれば幸いです

 

結婚する理由は、安定を求めるからではない。また、心の安定が得られるのは、相手を自分のものとして所有したり、支配したり、また所有されたり、支配されたりするからではない。人生で必要なものを相手に要求したり、期待したり、希望するからではない。

心の安定が得られるのは、人生で必要なもののすべて・・すなわち愛と智恵と洞察と、力と知識と理解と、慈しみと共感と強さのすべてが自分自身のなかに存在することを知っているからだ。

それを相手から得る為ではなく、お互いに贈りたいから、それによって相手をもっと豊かにしたいから、わたしは結婚する。

自分のなかの最高にして最善のものを正直に表現することをお互いに制約したり、コントロールしたり、妨げたり、お互いを束縛するために結婚するのではない。

(以下 省略)

「神との対話」ニール・ドナルド・ウォルシュ著

 

最後までお読み頂き ありがとうございます

Lana 無月子

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